icon-sns-youtube icon-sns-facebook icon-sns-twitter icon-sns-instagram icon-sns-line icon-sns-tiktok icon-sns-etc
SEARCH
【#3】WE ARE WHO WE ARE RADIO |宇野維正/ゲスト:立田敦子 original image 16x9

【#3】WE ARE WHO WE ARE RADIO |宇野維正/ゲスト:立田敦子

Podcast

2021.11.24

SHARE WITH

  • facebook
  • twitter
  • LINE

映画・音楽ジャーナリストの宇野維正さんをホストに、ルカ・グァダニーノ監督にとってテレビドラマ初挑戦となる『僕らのままで/WE ARE WHO WE ARE』の魅力を語る「WE ARE WHO WE ARE RADIO」。第3回のゲストは映画ジャーナリストの立田敦子氏。ヨーロッパの映画祭事情や、グァダニーノ監督ご本人の印象、"青春映画監督"ともいえる監督の作品づくりほか、さまざまな映画との関連についても語ります。本記事では、ポッドキャストで語られた内容の一部を文字起こしでお届けします。

目次

コロナ禍で映画祭までオンラインに

宇野「テレビシリーズもしっかり追ってるという点において、自分にとって立田さんはとても信頼できる映画ジャーナリストなんですよね」
立田「追ってるというか、好きで見ちゃいます。暇さえあれば映像を見るという悲しい習性があります。ドラマとかなるべく見ないようにしてるんですよ。なぜなら仕事が追いつかなくなるから。でも好きなものは見ちゃいますね」
宇野「コロナになってから新作映画の試写がなくなり、最近やっと通常に戻りつつありますが、そもそもハリウッドメジャーの新作が入ってこない状況。我々にとって試写に行くのも1つの仕事の軸ですが、こんなご時世だからオンライン試写も当たり前になってきました」
立田「メジャーの作品が劇場公開されなくなりましたね。今年のアカデミー賞にノミネートされている『シカゴ7裁判』も、もともと劇場公開されるはずでしたが」
宇野「パラマウント映画ですからね」
立田「はい。日本でも配給が決まっていたのにコロナ禍で上映できなくなり、Netflixが権利を買ったんです。毎年2月に開催されるベルリン映画祭も今年はオンライン映画祭になりました。6月にリアルに上映すると言ってますが、どうなるか分かりません。オンライン映画祭なんて初めての体験でとてもショックを受けました。映画祭というのは作品が初めて上映される場で、監督やプロデューサーが緊張して場に臨んでいる中、ジャーナリストもワクワクしながら見て、その第一発の反応が出て『どうだった?』とみんなで話し合うわけです。オンライン映画祭はそれがまったくなく、単にスクリーナーを一人でシーンと見るわけですよ(笑)。これってなかなかキツイなと思いました。本当にこの1年で変わりましたよね」
宇野「立田さんはベルリン、カンヌ、そして『僕らのままで』の舞台にも近いヴェネツィアふくめ世界三大映画祭へ頻繁に訪れてますよね」
立田「カンヌとヴェネツィアは毎年で20回以上、ベルリンは年によって訪れています。他にはヨーロッパやアメリカの小さな映画祭にも」
宇野「僕もカンヌに行ったことありますが『二度と来るか』と思いました(笑)。映画祭って1日に3~4本、選りすぐりの作品を朝から晩までちゃんとした意識で寝ずに、しかも場合によっては分からない言語で見なきゃいけない。あれを毎年やってる方はスゴイですよ」
立田「ある意味、修行ですね」
宇野「いや、本当に」
立田「ダニエル・シュミットの『カンヌ映画通り』という作品を見ると、初めてカンヌに行ったジャーナリストがどんな目に遭うかがよく分かります。とにかく悲惨な目に遭うんです」
宇野「メディアによってヒエラルキーもスゴイですよね」
立田「ただ、だんだん慣れていくし、このデジタル時代にオーガナイズも良くなってきているので、昔と比べればね。反対に、インターネット時代になってジャーナリストがもっと忙しくなりました。私も昔は上映の合間はカフェで人と話したりしていましたが、今は寸暇を惜しんでネットで原稿を送っています。階段に座りながら送っている人が会場にたくさんいますよ」
宇野「立田さんは自費で映画祭に行き、そこで仕事をすることで収支を立てているんですよね?」
立田「そこはケースバイケースですが、私はあまり映画祭を仕事として考えていません。私が最初に行った映画祭はヴェネツィアで、時期的に8月末から9月の頭ということもあり、夏休みを利用して20数年前に行きました。その中で面白い発見がありました。日本で映画を見ていると、かなりマニピュレート(操作)されているんだなと。世界にある映画と日本に入ってくる映画に差があることに気づき、あれ?と思ったんです」
宇野「それはかなり若いころに?」
立田「そうですね。あまり言うと年齢がバレますが(笑)。そして一緒のホテルになったスペイン人ジャーナリストに『カンヌも行かなきゃだめだ』と言われ、自分でもヴェネツィアでこれほど面白いならカンヌも!と思い、翌年からカンヌに行き始めました」

イタリアの風景を細かく写し取った『僕らのままで』

宇野「『僕らのままで』の舞台は、イタリアのヴェネト州にあるヴィチェンツァの基地です。ヴェネト州の州都はヴェネツィアなので、立田さんは舞台設定や土地柄に詳しいんじゃないですか?」
立田「イタリアは日本以上に地域によって文化・気候・食べ物が違ってきます。ヴェネツィアには仕事とプライベートで24~25回行ってますが、『僕らのままで』は現地の気候が映像にしっかり写っていて面白いなと思いました。ルカ・グァダニーノは自然の風景の音や色までスクリーンに反映する監督で、今回も突風や雨の中でしゃべっているシーンがありましたが、雨や風がやむのを待たずに撮影するところが面白かったです」
宇野「突風や雨もヴェネト州ならではですか?」
立田「ありますね。ヴェネツィアといえば晴れた空に青い海という印象があると思いますが、映画祭で2週間ほど滞在していてもなぜか1日か2日は嵐があるんです。停電でWi-Fiがつながらなくなったり。そういう気候が『僕らのままで』にはしっかり映っていました。『君の名前で僕を呼んで』でも自然の葉と葉が擦れ合う音や水の音をよく取り入れていた印象があり、今回もキレイな自然の場所で撮影しているわけでもないのに自然をガンガン取り入れていて、グァダニーノはそういう監督なんだなと思いました」
宇野「グァダニーノは南部のパレルモ出身で、『胸騒ぎのシチリア』みたいに地中海の陽光をとらえる監督というイメージがあります。しかしよくよく考えると、『君の名前で僕を呼んで』も『僕らのままで』も、単純にイタリアの“太陽”“夏”だけじゃないですね」
立田「それはすごく感じました。突風や雨のシーンは、ヴェネツィアを知っていることもあり楽しんで見ました。あと個人的に最近、『ようこそ映画音響の世界へ』というドキュメンタリーを監督した女性2人にインタビューしたことも関係しているのですが、音にこだわる監督は気にしています。映画の没入感はともするとIMAXなどの映像だけで語られがちですが、本当は音による効果も没入感に影響しているんです。
アルフォンソ・キュアロン監督の『ROMA/ローマ』は最先端のドルビーアトモスで撮られたことで有名で、かなり実験的な音の使い方をしていました。音の使い方で監督のセンスが出るなと最近思っているのですが、『僕らのままで』もフラットに音を乗せるのではない実験的な使い方をしていて、とても興味深かったですね」

イタリア映画界に久々に現れた俊英グァダニーノ

宇野「立田さんはグァダニーノに3回ほどインタビューしていますよね」
立田「はい。作品で言うと『胸騒ぎのシチリア』と『サスペリア』の時にそれぞれヴェネツィアで、さらに『サスペリア』は来日した時にもインタビューしました」
宇野「グァダニーノの印象はどうでした?」
立田「イタリアの監督にしては、強面というか、あまり愛想のない監督です。淡々と答えるタイプで、そしてユニークな方です」
宇野「グァダニーノは英語が堪能なので、インタビューも英語ですか?」
立田「そうです。堪能だけど母国語ではない、ということもあるのかもしれませんが、隅から隅まで饒舌に語るタイプではありませんね。監督には、聞かれたことをひと通り渋々答える方と、すごく説明したくて1つ聞かれたらそのまま文章になるくらいきっちり答える方の2通りいます。例えばヴィム・ヴェンダースは後者で、英語が第2外国語だから逆にきっちり文章を構築して答えてくれます。一方、グァダニーノは比較的、聞かれたことに対応してポツン、ポツンと答えるタイプです」
宇野「わりとぶっきらぼうなんだ」
立田「ぶっきらぼうに見えるタイプの監督ですね。映画を見る限りぶっきらぼうな人ではなく、かなり繊細だと思いますが」
宇野「今回のタイミングで海外メディアのインタビューをチェックしたけど、確かにそんなに饒舌な人ではありませんね」
立田「子供の頃にエチオピアにいた経験があるなど海外生活が長く、イタリア人といってもわりとインターナショナルな感覚の持ち主じゃないかな。グァダニーノより少し上の世代のナンニ・モレッティはドメスティックな人で、映画祭でもイタリア語の通訳をつけて話しています。グァダニーノはそれより世代が下ということもあるかもしれませんが、インターナショナルな印象がありますね」
宇野「グァダニーノはインターナショナルな作家だし、実際にインターナショナルに受け入れられているけど、イタリア映画という文脈で言うと、本当に久々に現れた俊英ですよね。イタリア映画に詳しい立田さんもそう思いませんか?」
立田「そうですね。これまでカンヌやヴェネツィアの映画祭に出てくる監督は限られていました。ベルナルド・ベルトルッチやマルコ・ベロッキオ、その下でモレッティとか」
宇野「その中でグァダニーノは大型新人という感じですね」
立田「全然、新人という年齢じゃないんですけどね。ヴェネツィアやカンヌなどだいたいの映画祭に当てはまることですが、そのお国の映画は優遇されて上映されるんですよ。例えば、コンペの作品枠が20本あるとすると、3~4本はイタリア映画が上映されたり。そのうち1本はグローバルな基準に達しているけど、残りは『えっ、これ日本じゃ無理でしょ。ちょっとテレビドラマっぽくない?』という作品が入ることもあります。その中でもグァダニーノは世界的に評価されるレベルの作品ですね」
宇野「かつて名だたる名監督たちがいた、という意味で日本に近い側面がありますが、イタリア映画はどうしてこの数十年でこんな感じになったんでしょうね」
立田「1950~70年代は隣のフランスの俳優たちがイタリア映画に出ていて、イタリアが上とは言わないまでもフランスと競合し合う関係だったのに、その後イタリア映画がガクンと衰退したんですよね。これという監督がベロッキオとベルトルッチぐらいしかいないほど。なかなかいい作品が出てこなかったのは、国のサポートが大きいと思います。フランスはそのへんが手厚くて映画を撮りやすい環境にあったけど、反対にイタリアはRAIというテレビ局が1強みたいになっていて。RAIは映画部門が大きいんですよ」
宇野「確かに一時期は、イタリア映画の冒頭にRAIのマークがない作品はない、と言っていい状態でしたね」
立田「そうなんです。この20年間ほどイタリア人監督にインタビューすると、だいたいRAIの悪口を言っていました。『テレビ映画のプロデューサーが時間を短くしろって言うんだ』とか。そうした状況もあって、インターナショナルな監督がなかなか出てこれず、インディーでしか出れなかった。カンヌの記者会見でイタリア人ジャーナリストが毎回『なんでコンペにイタリア映画が1本も入ってないのか』と質問するのがギャグのようにお約束になっていて(笑)、他の国の人は『そのレベルの作品がないからだよ』と心の中で思っていますが」
宇野「その時、さすがに現場で笑いは起きないんですか?」
立田「失笑は起きます(笑)。ただ、イタリア人は映画愛が強いし映画大国という意識もあるんだと思います。だからそういう質問が毎回あるんでしょう」
宇野「それなら、なおさらグァダニーノは待望の監督ですね。立田さんは『僕らのままで』を見て、どこにグッときましたか?」
立田「これは青春映画としての素晴らしい大作ですよね」
宇野「あくまで映画の大作という印象ですか」
立田「私からは映画の大作として見えますね。ドラマというフォーマットを利用して、グァダニーノ自身が青春映画でやりたいことをいろいろ試しているという印象です」
宇野「うんうん」

なぜ映画監督たちはテレビドラマに活躍の場を求めるのか

立田「実は昔から、尺について思うところがあるんです。2004~2005年頃だったかな、スティーヴン・ソダーバーグが『テレビで撮った作品は配信と映画で同時に公開してもいいんじゃないか』と言ってました」
宇野「当時はまだ配信なんてなかったんじゃないですか?」
立田「ドラマとしてということですね。HBOとか。日本にはあまりないけどアメリカやイギリスにはテレビ映画という枠組みがあり、HBOやBBCでテレビ映画として撮られたものが日本だと普通に映画館で公開されていました。で、ソダーバーグがさっきのように言ったら興行界から袋叩きに遭ったんです。その時ソダーバーグが言っていたのは、コンテンツによって尺は決まるもの。5時間のものがあっても60分のものがあってもいい。だから劇場で5時間かけられないのなら、そういう選択肢があってもいいんじゃないかということです。
他にも、クエンティン・タランティーノが4時間を超えるものを作ってプロデューサーやスタジオと大喧嘩したり、マーティン・スコセッシもよく『長すぎる』と言われますよね。でも今は配信の時代になり、尺の長さが関係しなくなってきたじゃないですか。こういう時代をソダーバーグは先取りしていたんでしょうね。イタリアもテレビドラマという活躍できる大きな土壌があり、テレビドラマを撮りながら映画を撮る監督もいます。典型的な例が、『輝ける青春』という366分の作品を撮ったマルコ・トゥリオ・ジョルダーナです」
宇野「いつごろの作品ですか?」
立田「2003年の作品で、日本で公開されたのは2005年です。この作品はカンヌでも上映されました。通常はカンヌでテレビ映画は上映しないのですが、『映画に匹敵する作家性がある』ということで長作の映画として上映されたのです。最近だとオリヴィエ・アサイヤスの『カルロス』もテレビドラマ用に撮った作品でしたが、出来がいいということでカンヌでスペシャル上映されました。
長作の監督ってけっこういるじゃないですか。日本の濱口竜介監督とか。自分の作風として尺が長い監督にとって、劇場公開用に2時間半や3時間に収めなきゃいけないという必要がなくなってくるわけです。フィルムメーカーにとって長尺とは自分でやりたいことがあるということで、向いている監督も中にはいます。グァダニーノの『僕らのままで』も、全8話で1本の映画に見えました」
宇野「その視点はけっこう重要だと思います。映画界とテレビ界の産業構造の変化がNetflixやHBO Maxを含めて起こっている中、テレビ界というかストリーミングサービス界が力を持ったことでいろんな映画監督がそこへ流れています。ただ、2010年代にこうした現象が始まる前から、長い作品を作りたいという欲求は一定の作り手の中にはあり、そうした作品が今の状況でより作られやすくなっていると思います」
立田「そうなんです。テレビのクオリティが上がったから映画監督がテレビでやってもいいと思ったわけではありません」
宇野「そういう人も中にはいるでしょうけどね」
立田「他にもテレビの方が製作費が出るからという理由もあるでしょうが、テレビという枠組みが面白いと思って作る人もいると思います。グァダニーノはそのパターンじゃないかな、と『僕らのままで』を見て感じました。単にドラマを作りたいというふうには見えませんでした」
宇野「構成が実験的で、デジタル撮影などこれまで彼がやったことのない手法も、複数のエピソードに分かれて時間が長いぶんいろいろやっていますよね。それでもグァダニーノが絶妙なのは、ニコラス・ウィンディング レフンがAmazonで作ったドラマシリーズ『トゥー・オールド・トゥー・ダイ・ヤング』みたいなことになっていない(笑)。作家としてのエゴが暴走していないのがさすがですね」
立田「濱口監督が今年のベルリン映画祭で銀熊賞を獲りましたが、受賞作の『偶然と想像』は3つの短編を1つの映画にしたもの。あの作品も実験的なところがあります。濱口監督はもともと長尺のタイプですが、ご自身も『合間合間でこういう短編を撮っていきたい』と言っていて今後もプロジェクトとして続けていくそうです。監督って、この作品は長尺で作りたいけど短編でこういう実験もしたい、という思いは必ずあるはず」
宇野「テレビドラマから発展していった深田晃司監督の『本気のしるし』もそうですよね」
立田「『本気のしるし』はほとんど編集しなかったそうで、深田監督も長尺向きのところがあると思います。テレビだからこう撮らなきゃいけないという枠組みを決められて撮るドラマもあるでしょうが、クリエイションの広がりという意味では面白い時代になってきましたね」
宇野「90分から2時間の映画はトイレタイムの生理に基づいているし、これだけ長くフォーマットとして続いたということはいろんな理由があると思います。ただ、言ってみれば映画の尺が2時間というのは産業側の要請だから、そこが崩れるのならこれまでと違うものを作りたいというクリエイターがいても当然ですよね」
立田「『ゴッドファーザー』も今の時代だったらもっと長尺で撮ったんじゃないかな。ディレクターズ・カットというと必ずものすごく長くなるじゃないですか。ということは、監督は最初から3時間半とか4時間の作品を作りたかったんだな、と思うことがあります。ドラマだったらそういうことができるし、今だったらドラマでも観客だったりプロデューサーのお金のかけ方も侮れないものがありますから。今、新しくて若いフィルムメーカーがそっちもやってみようと思うのは自然な流れですね」
宇野「自然な流れだし、ようやく自由になったのかもしれないですね。最近『ファルコン&ウィンター・ソルジャー』を見ていて、テレビシリーズだとこうやってキャラクターの掘り下げができるんだなと実感しました。アクションの見せ場はそのまま残っていて、いいところが増えてるだけという」
立田「私も『スター・ウォーズ』が好きで『マンダロリアン』を見ていますが、劇場映画やドラマを含め『スター・ウォーズ』の全コンテンツでベストだと思っています。面白い現象ですよね」
宇野「個人的にも世間的にも『スター・ウォーズ』のブランドが『ハン・ソロ/スター・ウォーズ・ストーリー』あたりからガタガタになっている中、いきなり持ち直したのは『マンダロリアン』のおかげ。決して『スカイウォーカーの夜明け』のおかげではないですから(笑)。
日本の作品を含めてこういう話をシームレスにできる方はあまりいないので、今回立田さんとお話しできるのは勉強になるし楽しいです」
立田「とんでもないです」

タイプの異なる作品を貫く“青春映画監督”としての作家性

宇野「立田さんが先ほど『僕らのままで』のポイントとして挙げていた“青春映画”というのは?」
立田「グァダニーノ作品で最初に見た『ミラノ、愛に生きる』でちょっと思ったのですが、ティルダ・スウィントン演じるロシアから富裕層に嫁入りした女性が若い男性と恋に落ちるというロマンスが中心でありつつ、青春映画の息吹のようなものも感じられました」
宇野「それは若いキャラクターが云々ということではなく、撮り方も含めて?」
立田「撮り方であったり、青春のような恋愛を描いているということ。マチュアな(成熟した)人たちのドロドロした不倫ではなく、まるで初々しい初恋のような(笑)」
宇野「グァダニーノの作品って大人が未熟なんですよね(笑)」
立田「ただ、『ミラノ、愛に生きる』は青春映画だとまで強く感じませんでした。次作の『胸騒ぎのシチリア』はアラン・ドロンの『太陽が知っている』のリメイクというかリブートで、最初はなぜドロンの代表作でもない映画をリメイクするのか不思議でしたが、そうした青春時代にある機微を描きたいんじゃないかな?あるいは彼の得意分野じゃないかな?と作品を見て思いました。
そこからの『僕の名前で君を呼んで』は、ど真ん中に来たな!という印象。この作品の何が素晴らしいかというと、ストーリーそのものよりも主人公2人の関係性に寄っていて、そこで起きるケミストリーの瞬間をとらえることに集中していること。『胸騒ぎのシチリア』でも見られたことですが、そうした場面になると本当にスクリーンが生き生きとしてくる。今回の『僕らのままで』も、まさにど真ん中です」
宇野「今回は一番分かりやすいですよね。まさに青春群像劇ですから」
立田「最初から期待していましたが、期待を裏切らない大傑作でした」
宇野「もともとグァダニーノが持っていた、登場人物が大人でも表現できる青春映画性が全開になったというわけですね」
立田「そうですね。主人公のフレイザーだけじゃなく、お母さんら大人たちの恋愛も含めて、青春映画でしたね」
宇野「そこが素晴らしいところですよね。日本でも“キラキラ映画”とか呼ばれたりもするティーンムービーがありますが、ああいう作品はほとんど大人の存在が“悪”ですらなく“無”じゃないですか。また、青春映画といえば『ブック・スマート』やNetflixの『ハーフ・オブ・イット:面白いのはこれから』『モキシー ~私たちのムーブメント~』などが最近話題になっていますが、今は青春映画の役割が大きくなっている気がします。世の中の価値観が大きく変化する時期に入っている中で、ミレニアル世代やZ世代を登場人物とし、その世代に向けてジェンダーや人種などの新しい価値観をアップデートしている。かつてあった青春映画もちゃんと参照しながら。それは確かに面白いんだけど、果たして世代だけで切っていいのか? グァダニーノの作品を見ていると大人も子供も未熟。最近のティーンムービーは確かにレイシズムやルッキズムをはじめとするいろんな差別や偏見から自由になってきてますが、構造としてはエイジズムの産物と言える。でも、『僕らのままで』はそのエイジズムからも自由ですよね」

グァダニーノの“若さ” と強み

立田「グァダニーノはもう50歳。その年でまだ青春映画を撮れるというのはすごいことです。昨年、グザヴィエ・ドラン監督の『マティア&マキシム』が公開されましたが、私は監督にとっての“青春への決別”と思っています」
宇野「あの作品もダラダラした時間を意図的に撮っていて、ちょっと『僕らのままで』に近いですね」
立田「ドランは30歳になり、今までママと自分の物語みたいなものを撮ってきた彼にとって初めての王道青春映画。彼もクィアな監督で、インタビューをしていて面白かったのが『自分が30歳になっておじさんになったことに気づいた。今の十代の子たちは、自分が十代の時に感じていたゲイとしての葛藤がない』と言ったことです。この作品には友達の妹として新しい価値観を持つ十代の女の子が登場しますが、ドランはその時に初めて『自分はもう若くないんだ』と思ったそうです。実際、彼がもともと持っていた感覚は残っているので、作品の中でも自分がクィアであることの葛藤は出ています」
宇野「ドランはグァダニーノの『君の名前で僕を呼んで』に刺激されたと言ってましたよね。これまで自分がゲイであることを背景としては描いても中心として描いてこなかったのが、『君の名前で僕を呼んで』を見て“真ん中に持ってきていいんだ”と勇気づけられたそうです」
立田「そういう意味で、不思議なことにグァダニーノの方が“若い”んですよ」
宇野「そうなんですよね」
立田「ドランは『マティア&マキシム』で青春と決別したので、これからどんな作品を作っていくのか楽しみではありますが。グァダニーノは自分がそういう時代のど真ん中にあたる20代ではないにもかかわらず、『僕らのままで』のような作品を手がけている。
もちろん、自分が当事者だから当事者感覚を前面に出せるというクィア監督の強さはあると思います。『君の名前で僕を呼んで』ではクィアな恋愛の微妙なところを繊細に描けていたし、『僕らのままで』も子供がいる同性愛者という母親サラや男の子になりたいトランスジェンダーのケイトリンなどを描く皮膚感覚が素晴らしい。学んでできることではありません。例えば、ヘテロセクシャルの監督があの感覚を描けるのか? 社会問題としては描けるかもしれないし、そのように扱ってはいけないとは思わないけど、あの感覚が出せるでしょうか。もちろん、グァダニーノがゲイの監督だからというわけじゃなく、彼の感覚が素晴らしいからというのが第一。そういう意味で、とうとうグァダニーノの時代が来たかという思いです。
グァダニーノが最も得意とする“親密性”を描ける監督って、いるようでそんなにいないから、描けるだけで大きな武器。だから、なんで急に『サスペリア』を撮るんだろう?傾向が分からない!って不思議でしたよ。インタビューしても朴訥としていてよく分からないんですが(笑)、彼の感覚をもってしていろんなジャンルを描くんだなと思いました」
宇野「なるほど」
立田「そういう意味ではグザヴィエ・ドランと対照的なタイプ。自分が描ける親密さをいろんなところに持っていけるという強みがあります」
宇野「『僕らのままで』でグァダニーノは脚本も手掛けているけど、原作ものやリメイクなど自分のオリジナルストーリーであることにこだわっていませんよね。今後予定されている作品も原作ものが多く、自分の感覚で料理すれば絶対自分の映画になるという気持ちがあるんでしょう」
立田「グァダニーノが面白いことを言ってたんですよ。『2度同じことをしたくない』と。ドランなんかずっと同じことをしているけど(笑)、それはそれでいいと思うんですよ。自分の作風をずっと追求する監督がいてもね。しかしグァダニーノに関しては違います。むしろ自分が持っている資質をいろんなもので試したいという欲求が強い監督という印象です」
宇野「今後予定されている『君の名前で僕を呼んで』の続編も、同じテイストじゃないかもしれないですね。時代背景も年齢もいろいろ変わるわけだから当然だろうけど」
立田「『僕らのままで』は女性たちの描かれ方がすごく良いんですよ。クロエ・セヴィニーとアリシー・ブラガが演じる同性愛夫婦とか、トランスジェンダーのケイトリンとか。さらにグァダニーノは社会的なものを取り込むのがすごく上手で、『サスペリア』にも原作やオリジナル映画にないドイツの歴史をがっつり入れていました。今回も、親密さを描くというとてもプライベートなセンスと、社会的な要素を取り入れるバランスが絶妙でした」

意外な監督や作品が『僕らのままで』に影響を与えた?

宇野「そうなんですよね。ただ、彼が考え抜いてこのバランスになったというより、ちょっと天性のタッチという感じはしませんか?」
立田「それはありますね。『僕らのままで』で一番気になったこととして、本人に聞いても正直に答えてくれるか分かりませんが、『台風クラブ』みたいなシーンがいくつかあるじゃないですか。ベルトルッチの『ドリーマーズ』や『若者のすべて』の影響かなと思ってましたが、もしかして相米慎二さんの作品も見てるんじゃないかな?」
宇野「見てるかもしれない。グァダニーノのセンスは天性だけど、どインテリな感じですね」
立田「すごいインテリですよ。『サスペリア』でも哲学書からどんどん引用してたし」
宇野「『僕らのままで』も図書館でフレイザーと母親の部下が交流するシーンがありますよね。そこでバロウズとか出てくるけど、あれも付け焼き刃な感じが全然しないし。そのあたりの信頼感があります」
立田「『僕らのままで』が影響を受けた監督としてシャンタル・アケルマンが挙がっていましたが、とても納得できました」
宇野「シャンタル・アケルマンについて説明してもらえますか?」
立田「すごく実験的な作品を撮る監督で、フランス映画に見えるけどフランスじゃないんですよ」
宇野「ベルギーの監督ですね」
立田「彼女は『ブリュッセル1080、コメルス河畔通り23番地、ジャンヌ・ディエルマン』という映画を撮っていて、これは『去年マリエンバートで』に主演したデルフィーヌ・セイリグの生活をずーっと追う作品なんです。日本ではそこまで有名じゃないけど、ヨーロッパでは彼女に影響を受けている監督が意外といます。人に寄ってプライベートな親密感のあるグァダニーノの演出は、たぶんそこから来てるんじゃないでしょか」
宇野「日本だとジョン・カサヴェテスがわりと神格化されていて、実際にいろんな監督が影響を受けているという話をすることも多いですが、被写体との距離の異常なくらいの近さって、別にカサヴェテスの専売特許でも何でもないですもんね」
立田「そうです。そういえば今『DAU. ナターシャ』という映画が公開されていますよね。これは15年がかりのプロジェクトの中で旧ソ連時代の全体主義を再継承するという目的で撮られたもの。街自体をセットで組み、オーディションで選ばれた人たちがその時代の衣装を着て住みついていて、そこで起きている物語をカメラに写しています。もちろん簡単な脚本はありますが、その脚本に沿って演じるという、昔ラース・フォン・トリアーもやりたがっていたようなことを実際にやった人がいるんです。昨年のベルリンで、16本くらい作られるうちの1本目として『DAU. ナターシャ』がコンペで上映されました」
宇野「ロシア映画ですよね?」
立田「はい。ベルリンで芸術貢献賞を受賞したのですが、この作品の監督もシャンタル・アケルマンに影響を受けてるんじゃないかな」
宇野「面白そうだなと思いつつ見逃している作品ですが、面白いですか?」
立田「すごい映画です(笑)。インタレスティングという意味では面白いですが、ゲラゲラ笑うという作品ではありません。恐ろしい作品ですよ」

舞台となる土地の特徴を巧みに利用

宇野「このポッドキャストの配信は第7話が配信されるタイミングなので、別にネタバレになっても構いませんから、これは!というシーンがあったら話してください」
立田「みんなで絵の具が入ったものを投げ合う、『台風クラブ』のように一見意味のなさそうなシーンがありましたよね。あそこが大好きなんです」
宇野「第4話の頭の方でしたっけ? 結婚パーティの」
立田「森の中で行うサバイバルゲームの後です」
宇野「ああ、結婚パーティと同じ回のエピソードですね」
立田「あの流れが面白かったです。『台風クラブ』感があって(笑)」
宇野「『台風クラブ』感ねえ。グァダニーノも見てる可能性あるな」
立田「あと、ボートのシーンが好きですね。あのあたりは街が海に近いので、ボートを持っていることはけっこうあります。そこそこの家庭だと車が家に1台あるように。そしてケイトリンがフレイザーと一緒に出掛けた時、ボートを汚して父親に叱られるじゃないですか。その最後の方で、彼女が一人で寝転んでいるシーンがとても好きです。ヴェネツィアらしい水平線が真っ平らな海と空の使い方で映し出される風景がいいんですよ。他にも、埋立地に建てられた基地も真っ平らな感じでしたよね。
あれを見ていると、グァダニーノはその地域の土地を利用する監督なんだなと思いました。『僕の名前で君を呼んで』では、イタリアの海辺の避暑地じゃなく、山の避暑地の風景を利用してましたよね。あれってヨーロッパ映画、特にイタリア映画を見ている人にとって懐かしい感じがします。マルコ・ベロッキオもああいう土地をよく使っていました。
日本人はイタリアの避暑地というとコート・ダジュールみたいな海辺を想像するかもしれませんが、イタリアは暑い国なので避暑地といえば高原や森の中。主人公が自転車で街に行ったり川へ泳ぎに行ったり、土地の利用の仕方がとてもうまかった。『僕らのままで』はそれとはまったく違う土地でしたが、やはりうまく利用していて面白かったです」
宇野「移動も含めて生活が見えてきますよね」
立田「軍人たちが住んでいる米軍基地は、団地みたいな場所じゃないですか。窓と窓の利用の仕方も面白かった。あれはセットで建てたんでしょうか」
宇野「セットですよ。米軍から基地の撮影許可が下りなかったので」
立田「なるほど。だったら、セットをあのように組むところもすごい。向こう側の窓にフレイザーが立っていたり、窓にメッセージを貼ったりという利用の仕方はうまいし、そこまで考えてセットを組んだと思うとすごいですね」

今後のグァダニーノに期待するもの

宇野「立田さんが今後グァダニーノの期待するものは?」
立田「もうホラーも撮っちゃったし、いろいろやってるので、次は何を撮るんだろう?」
宇野「歴史ものとかいろいろ企画はありますけどね。一番やばそうなのは『スカーフェイス』のリメイク(笑)」
立田「少し前なら『スカーフェイス』のリメイクなんてできるの?と思ったけど、ここまでいろいろうまくやってるんだから、きっとできるんじゃないかな。グァダニーノはリメイク監督になったのかな?という感じもしますが」
宇野「リメイクしても全部この人の映画にしかならないから」
立田「そこが素晴らしいですよね。『サスペリア』は昔の映画も好きだったけど、今回もすごく好きです。これほどみんなが知っている金字塔を臆面もなくリメイクするんだから」
宇野「臆面もないところがグァダニーノのカッコイイところなんです」
立田「『僕の名前で君を呼んで』の続編もすごく期待しています。単なる続編にならないと思うし」
宇野「自分もそう思います」
立田「また違った話になってるでしょうし、しかも『僕らのままで』を撮ったことでさらにダイバーシティ的な要素も入ってくるんじゃないでしょか。社会とどう向き合っていくのかというところにも期待しています」
宇野「そうですね」
立田「グァダニーノがすごいのは、すごく親密な話を撮ってるのに実は社会性があるところ。社会問題をまったくテーマにしていないのに、きちんと盛り込まれているんですよね」
宇野「ただ切ないのは、我々はもうああいう日々に戻れないんですよね。そう思いませんか?」
立田「確かに(笑)。そういう郷愁感がグァダニーノにまったくないのがすごいですが」
宇野「個人的には思いましたよ」
立田「大人目線で撮るとそういう郷愁感が全面的に出るはずなのに、彼は30代の新人監督のように撮るんですよ。30代の監督がそんなに遠くない高校生活や十代の終わりを描くのはギリギリ可能だと思うけど、50歳でそれができるのは彼の才能ですね」
宇野「確かに。当事者性とはまた違いますからね」
立田「そうですね。会うとまったく普通のおじさんですから(笑)」
宇野「第4話で友達といきなり盛り上がって結婚するとか言い出して、お金を出し合って服を買って、ロシアの人の別荘に潜り込んで…という、全部が全部成り行きで進んでいくのは大人になったらできないじゃないですか」
立田「バスの中で結婚すると言い出した時、誰も『えっ?』とならず、みんなが本当に生き生きとした顔で喜びますよね。フレイザーがあんなに生き生きとした顔を見せるのは、あのシーンくらいじゃないかなと思うぐらい。ああいうショットを撮れるのは素晴らしいですね」
宇野「極端な話、人生ってああいう1日をどれだけ体験できるかだと思うんですよ。もうなかなか経験できないから。ああいう1日の記憶がどれだけあるかって大事ですよ」
立田「ここ数年見た青春映画の中でもダントツに良かったんじゃないかな。昨年もいい青春映画がたくさんありましたが、『僕らのままで』のような作品はグァダニーノにしか作れない。私はすごく好きです」
宇野「今回はいろいろお話ができて楽しかったです。どうもありがとうございました」
立田「ありがとうございました」
『僕らのままで/WE ARE WHO WE ARE』
原題:WE ARE WHO WE ARE
動画配信サービス スターチャンネルEX にて配信中!
Photo by Yannis Drakoulidis (c) 2020 Wildside Srl - Sky Italia - Small Forward Productions Srl
(2021年3月)
169 件

RELATED