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【#1】WE ARE WHO WE ARE RADIO |宇野維正/ゲスト:木津毅

Podcast

2021.11.24

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映画・音楽ジャーナリストの宇野維正さんをホストに、ルカ・グァダニーノ監督にとってテレビドラマ初挑戦となる『僕らのままで/WE ARE WHO WE ARE』の魅力を語る「WE ARE WHO WE ARE RADIO」。第1回は映画・音楽ライターの木津毅さんと共に、「ルカ・グァダニーノ監督とは」や「『僕らのままで/WE ARE WHO WE ARE』とは」をテーマにお話しいたします(全4話)。本記事では、Podcastで語られた内容の一部を文字起こしでお届けします。

目次

グァダニーノの定番と進化を兼ね備えた最高のドラマ

宇野「見る前から最高なんだろうなとは思ってたけど、実際に『僕らのままで』は最高だったね」
木津「最高でしたね」
宇野「最初の3エピソードくらいまでは『最高だけど、つかみどころのないドラマだな』という感覚だったけど、最後まで見たらぶっ飛ばされたよ」
木津「僕は第1話でけっこうやられました。“光が降り注ぐイタリアの夏”というグァダニーノの定番モチーフが、ただただ気持ちよくてクラクラしましたね。そして回数を見ていくごとに、グァダニーノがより前に進んでいる感じがあり、すごく感動しました。語りがいのある作品であると同時に、多面的で語るのが難しい作品でもあります」
宇野「第1話が主人公フレイザーの視点で始まり、その後、同じ時間軸がケイトリンの視点で語り直されるよね。このままキャラクターごとの視点で語っていくポエティックなエッセイスタイルなのかなと思いきや、見ていくうちにそうじゃないと分かるんだよね」

“オープンリー・ゲイ監督”ペドロ・アルモドバルとルカ・グァダニーノとの共通性とは

宇野「ポール・トーマス・アンダーソンやドゥニ・ヴィルヌーヴやデヴィッド・フィンチャーなど同時代の映画作家で自分にとって特別な存在は何人かいるけど、ルカ・グァダニーノはそうした特別な映画作家の中でも5本の指に入る存在。木津君にとってのグァダニーノは?」
木津「オープンリー・ゲイでありゲイ・カルチャーを紹介するライターとして、僕は昔からゲイの映画作家に強い関心を抱いてきました。グァダニーノの作品を最初に見たのは『ミラノ、愛に生きる』。彼についての前情報がない中、『とんでもない人が出てきたな』という印象でした。“ヴィスコンティの再来”といった触れ込みがある中でいろいろ調べるうちに、グァダニーノもオープンリー・ゲイであることが分かり、より注目するようになりました。
その後の『胸騒ぎのシチリア』が本当にスゴくて『この人に全ベットしよう』と思っていたら、『君の名前で僕を呼んで』で同性愛をテーマにした映画の高みに行った──この人を信じて本当に良かったです。
ただ、ゲイ云々を除いても、彼の作品は映像の快楽度が高い。ライターとして映画について書く時は社会背景やテーマを主軸にすることが多いけど、グァダニーノの映画は『そんなことよりも映像の快楽度だよな』という映画好きの原点を思い出させてくれる。そこが僕にとってグァダニーノの好きなところ。また、好きなポイント自体にも多面性がある監督です」
宇野「ヨーロッパのオープンリー・ゲイの監督の中では、ペドロ・アルモドバルが社会的立場の確立などの面で長年貢献してきたと言っていいよね? そのアルモドバルとグァダニーノをどういう視点で比較できるかな?」
木津「ゲイの映画作家にはいろんなパターンがありますが、ゲイ・アイデンティティを前面に押し出す人とそうでない人に分かれがち。アルモドバルとグァダニーノはゲイであることを必ずしも作品テーマの前面に押し出さず、ちょっと近いと言えます。グァダニーノは『君の名前で僕を呼んで』のように同性愛が前提になっている世界で愛を純粋に魅せ、クィア(セクシャルマイノリティの総称)の欲望をずっと撮っているアルモドバルも、いわゆるメロドラマやミステリーにゲイが前提である世界を持ち込む作家。そういう意味でも2人は近い存在。もちろん、作品を深く見ていけば社会性もあるけど、社会性を前に出しすぎず映画というものを最優先する作家ですね」
宇野「同性愛を当たり前の土台として描き込んできたのがアルモドバルで、その流れの中にグァダニーノもいるということだね」
木津「そうです。そうしたスタンスはヨーロッパ的だなと思います。アメリカだとどうしてもアイデンティティ・ポリティクス寄りになる傾向がありますから」

ヨーロッパ映画の懐かしい興奮と新境地を感じさせた『胸騒ぎのシチリア』

宇野「『僕らのままで』に話を移すと、舞台はイタリア・ヴェネト州にあるヴィチェンツァという米陸軍基地。イタリアも日本と同じように戦争に負けた国だから米軍基地があるわけだけど、そこへ主人公の母親が司令官として赴任してくる。そして彼の母親には、当たり前のように女性のパートナーがいる」
木津「当たり前のこととして、まったく説明がありませんでしたね」
宇野「そう。主人公が2人のお母さんと米軍の中の住宅に引っ越してくるところから始まるんだけど、米軍では実際にそういうことってあるのかな?」
木津「うーん、僕もそこは『そうなのか』と思いながら見ていました」
宇野「当初はヴィチェンツァの米軍基地で撮影する予定で話が進んでいたらしい。グァダニーノは基地での撮影なんて無理だろうと思っていたらしいけど。実際、米軍に脚本を見せたら断られて、撮影用に基地のセットを組んだ。物語の基本設定によるものなのかストーリー展開によるものなのか、米軍としては基地を撮影に貸し出すには抵抗がある作品ということなんだろうね」
木津「そうかもしれないし、あるいは作中でドナルド・トランプが象徴的に扱われているところも関係あるかも。作品の奥とはいえ社会性が存在するわけで、そういうところも見どころの一つだとは思いますが」
宇野「自分も含めて日本の映画ファンは『ミラノ、愛に生きる』くらいからグァダニーノを発見したと思うんだけど、ぶっ飛んだのは『胸騒ぎのシチリア』で、本当にとんでもない監督が現れたなと思ったんだ。『胸騒ぎのシチリア』なんて、英米圏の大物レコードプロデューサーやシンガーたちの人間模様を、イタリア人監督がシチリアを舞台に描くという、うまくいきそうもないアイデアの作品なのに」
木津「『胸騒ぎのシチリア』はアラン・ドロンの『太陽が知っている』のリメイクですね」
宇野「リメイクというか、『サスペリア』もそうだったけどグァダニーノの場合はポップミュージックで言うところのカバーだよね。それも相当アレンジしたカバー」
木津「相当変えてますね。『太陽が知っている』にはシンガーなんて全然出てこないし、物語の骨格自体はある程度なぞりつつ、設定をかなり細かく変えて、かつラストの結論も異なっていました。変な映画だなと思いながら見ていましたが、僕にとっては快楽度が高すぎて、シチリアの美しい景色と男2人の裸を見ているうちに終わっていた(笑)」
宇野「自分はアメリカをロケーションにしているだけで特別と思えるぐらいアメリカ映画が好きなんだけど、十代で映画に目覚めるきっかけになったのはヨーロッパの映画作家の作品だった。リアルタイムの映画作家だけでなく、ヴィスコンティやベルナルド・ベルトルッチやミケランジェロ・アントニオーニなんかの過去の作品も、10代の頃からレンタルビデオやリバイバル上映などで見やすい時代だし環境だったから。そうしたヨーロッパ映画への憧れと、アメリカ映画へのオブセッションの2つを抱えていて。
一方、アメリカのポップカルチャーのダイナミズムみたいなものに対して、ヨーロッパの映画作家たちは蚊帳の外というか。『ミラノ、愛に生きる』はまあわかるけど、『胸騒ぎのシチリア』でさえも、日本での映画のプロモーションはミニシアター的な特定の観客層に向いていた。パリが舞台なら必ず邦題にパリと付くみたいに、原題にはないミラノやシチリアという地名が邦題に入っていることからも分かるように、数年に一度はヨーロッパ旅行に行くような富裕層が映画館に行って見るというマーケティングの中で公開されたヨーロッパ映画だった。
近年、ヨーロッパのリアルタイムの映画作家にあまり興奮できなくなってきたというのが正直なところだったけど、『胸騒ぎのシチリア』を見てみたらとんでもない映画で。英米のポップミュージックの人物名が台詞に飛び交うだけでなく、ちゃんとアメリカのポップカルチャーのダイナミズムを血肉化していた。さらになおかつ木津君が言っていたような映像の快楽度は、まさしくかつて見たイタリア映画の興奮そのまま。それらが一緒になって感じられることの驚きだったんだ」

ハリウッド・スターがヨーロッパの才能ある映画作家を発掘する時代に

木津「なるほど。僕は宇野さんにとっての現代ヨーロッパ映画との距離感について聞きたかったんですが、まさに今のお話がそうでした。僕の中でグァダニーノは何だかんだでヨーロッパの映画作家だなという思いが強いのですが、その中でもまた別の立ち位置ということでしょうか?」
宇野「そう。ただ、グァダニーノだけがすごいというわけではない。『胸騒ぎのシチリア』に出演したティルダ・スウィントンは、マーベルのビッグバジェット映画と並行してこうしたヨーロッパ映画の作品にも出ていたわけだけど、ギャラはマーベル映画の10分の1どころじゃないでしょ? ある時代からハリウッドの一部のトップアクターたちに、そういう動きをする人たちが出てきたと思うんだ。グァダニーノ以外にも、オリヴィエ・アサイヤス監督もハリウッドの俳優を集めてヨーロッパで撮影するという磁場になっている。クリステン・スチュワートとかクロエ・グレース・モレッツとかね。彼女たちのように意識の高いハリウッド・アクターやアクトレスがヨーロッパの才能ある映画作家を早い段階から見つけ、一緒に何かを作る──グァダニーノはそうした動きの中で出てきた映画作家の象徴であり、今一番熱い場所にいるよね」
木津「確かにそうですね。ギリシャのヨルゴス・ランティモスもまさにそういう流れから出てきた監督でしょう」
宇野「レディオヘッドのトム・ヨークだって、かなり早い段階からランティモスにMVを頼んでたしね。意識の高いという言葉はあまり好きじゃないけど、アンテナの鋭い役者やミュージシャンが英米のポップカルチャーのど真ん中に何人もいて、彼らがヨーロッパの映画作家にMVをオファーしたり、ハリウッドとは桁が違うギャラで作品に出演することでフックアップしていく。こうした動きは映画やアートの世界においてある種の理想像。グァダニーノがすごいのはもちろんだけど、2000年代以降におけるヨーロッパとアメリカのカルチャーの幸福な交差場所という見方もできて、今回の『僕らのままで』もまさにそういう作品だね」
木津「そうですね。『ミラノ、愛に生きる』の頃のグァダニーノは、ティルダ・スウィントンが出演していたもののハイブランドの衣装が使われるなど“ヨーロッパ的な作品”として見ていたけど、『胸騒ぎのシチリア』『君の名前で僕を呼んで』『サスペリア』と段階を踏んでいくことでどんどんポップになっていった印象があります。今回の『僕らのままで』も、ティーンドラマという要素も含めて、大昔からヨーロッパ映画に触れてきた人以外でも入口として見れるなと思いました。そうした間口の作品をHBOがグァダニーノに任せるというのは、うまいやり方ですね」
宇野「『君の名前で僕を呼んで』が話題になった頃に動き始めた企画だそうで、役者やミュージシャンもそうだけど、これは!という才能を見つけた時に引き上げる速さはすごいね。グァダニーノはNetflixで動いている企画があるし、『君の名前で僕を呼んで』の続編の予定もあるし、話題作が目白押し。一気に超売れっ子になったけど、こうしたトップの映画監督が普通にテレビシリーズに飛び込んでくるというのが、今の時代なんだろうね」

“8時間の『君の名前で僕を呼んで』”と呼べるほどグァダニーノ節が満載

木津「グァダニーノが初めてテレビシリーズを手がけると聞いた時は、『君の名前で僕を呼んで』は快楽度が高すぎて2時間じゃ足りないなと感じていたので、ああいう世界をドラマでやるというのはロジカルな発展だなと思いました。話数が多い分、ゆとりを持ってじっくり演出を見せたいというグァダニーノの思いにもハマったんでしょうね」
宇野「グァダニーノの作品で一番知られているのはおそらく『君の名前で僕を呼んで』。『君の名前で僕を呼んで』を見た人は、一人残らず『僕らのままで』も見てほしい。というか、見る必要がある!ということを広く伝えることが、無料で聴けるこの番組の一つの目的だと思っているんだ。冒頭で流れる現代音楽家ジョン・アダムズの曲の入り方から、ちょっと主人公の年齢設定が低いしメインストーリーではないけど年上の男性への淡い恋心が描かれていることも含め、極端に言うと“8時間の『君の名前で僕を呼んで』”と言っていいんじゃないかというぐらい共通点が多いし」
木津「そうですね。今回、過去作も改めて見直して思ったのが、グァダニーノは“夏とエロス”の監督ということ。『サスペリア』は意図的に“冬とタナトス(ギリシア神話の死神)”を描いてましたけどね。グァダニーノは『ミラノ、愛に生きる』『胸騒ぎのシチリア』『君の名前で僕を呼んで』を“欲望三部作”と呼んでいて、欲望を瑞々しく映すために夏がモチーフになっている。欲望にこだわるのはクィア作家の特徴の一つで、欲望を瑞々しい形で描いた極点が『君の名前で僕を呼んで』と思っていましたが、そのエッセンスの先をやろうとしているのが『僕らのままで』。夏から物語が始まって季節が下っていくところも含めて、グァダニーノが文字通り次の季節に向かっている気がします。『君の名前で僕を呼んで』に感動し心を動かされた人たちは、シリーズ前半の夏の雰囲気にやられつつ、さらにグァダニーノのその先を味わえるので、ぜひ見てほしい」
宇野「だって同じだもんね。もちろん映画作家として足踏みしているという意味ではなく、あの最高のフィーリングがここにもあるということ。技術的な面でいうと、『君の名前で僕を呼んで』では35mmフィルムで撮影されていたのに対して今回はデジタルで撮影されている。役者にカチッと演出をつけるのではなく、かなり自由に演じてもらって長く撮影するというスタイルなんだろうけど、デジタルになってもテレビシリーズになってもグァダニーノのエッセンスは本当に変わらないね」
木津「シリーズ後半から撮影監督にヨリック・ル・ソーを起用したり、スタッフも過去作の重要な人たちで固めていますから。さらに今回は、イタリアの作家パオロ・ジョルダーノが原案に加わっていることも見逃せません」
宇野「ジョルダーノは昨年『コロナの時代の僕ら』で話題になった国際的作家。おそらくテレビシリーズの企画が来てからジョルダーノに依頼したんだろうけど、グァダニーノは超有名な作家に脚本の原案を書いてほしいと言えるぐらいの立場になったということだね」
木津「シリーズ前半の撮影監督は『ザ・スクエア 思いやりの聖域』や『フレンチアルプスで起きたこと』を撮っているフレドリック・ウェンツェルで、本当にとんでもない人たちが当たり前のように集まっているドラマですね。キャストもクロエ・セヴィニーのようなベテランもいればラッパーのキッド・カディという変化球もあったり」
宇野「トランプとカントリー・ミュージックが好きな陸軍の軍人を、カニエ・ウェストの子分のキッド・カディが演じてるっていうね(笑)。ハイコンテクストではあるけど、そういう楽しみ方ができるのは本来はアメリカ映画の醍醐味で。ヨーロッパの映画作家の作品で、ここまで高度な仕掛けがたくさんあるのは楽しいよね」

親として、ゲイとして…登場人物ごとの立場のリアルに共感

宇野「ティーンであることの面倒くささや、その時期特有のグチャグチャした気持ちはもちろん自分の記憶にもあるけど、この作品に関してはどちらかというと親目線。メインキャラクターたちにはそれぞれ何かしらの事情を抱えている親がいて、『父親も母親も悪くないのに、もうちょっと優しくしてやれよ!』と思わずにはいられなかった(笑)。例えば、ケイトリンが一緒に車に乗っている父親に『好きな曲をかけていいぞ』と言われ、『別にいいわ』『お前いつもイヤホンしてるじゃないか。好きな曲があるんだろ?』『音楽なんて別に何でもいいの』と展開していくあの会話!(笑)父親と好きな音楽なんて共有したくないという気持ちが、同じようにティーンの子供がいる父親として切ない…」
木津「僕は中間の気持ちで見ていたから、面白い視点ですね。日本に生まれてゲイとして十代を育ったしんどさが記憶にある僕は、主人公のフレイザーが年上の兵士に惹かれていく場面で『自分が14~15歳だったら絶対そうなる』と共感して見てたけど、かといって14歳の少年が30過ぎの兵士とそうなるのは、36歳である今の自分が見たら心配にもなる(笑)」
宇野「保護者目線ということ?」
木津「保護者目線も若干入りますね。ただ、そこも含めて、十代の視聴者に対して嘘がないなと思いました。ポリティカル・コレクトネス的な目線が入ると『十代が三十代に惹かれるなんてけしからん』となるんだろうけど、あれぐらいの年齢で三十代の年上に惹かれるなんて全然あること。十代の目線というか、十代に届くようなリアリティで作られていますよね。親に対する理不尽な対応も、親からしたら『もうちょっと優しくしてくれよ』となるけど、『十代ってこんな感じだったよな』とすごくよく分かります。
そのあたりの巧さはパオロ・ジョルダーノの貢献が大きいんじゃないでしょうか。物理学者でもあるジョルダーノは『素数たちの孤独』というベストセラー小説を書いていて、これは孤独がちな少年少女が出会い喧嘩しながら絆を育んでいくという物語で、まさに『僕らのままで』とモチーフが重なり、ティーンのリアリティも十分ある作品なんです。『君の名前で僕を呼んで』で息子の同性愛に理解を示す父親がファンタジーというかキレイに感じられるのに対して、『僕らのままで』はもっと生々しく、いたたまれなさも入ってくる。そういう意味でグァダニーノは作家としてまだまだ進化するでしょうし、それもドラマだからこそできたことなんだと思います」
宇野「『胸騒ぎのシチリア』までのグァダニーノ作品は、言ってみればヨーロッパの成熟した文化の中で暮らす成熟した大人の話だったけど、作品を追うごとに映画作家としてどんどんすごくなると共に、若い客層を狙っていてちゃんと捉えている。こういう話題をこの番組から発信して日本のティーンにどれだけ届くか分からないけど、少なくとも欧米のティーンにより近い作家として今回の作品で届いた感じはするんだ。洗練と成熟を重ねて大人向けになるんじゃなく、より若い観客や視聴者にモノを作っていけている」
木津「なるほど」

テレビシリーズへ進出する映画監督の系譜を塗り替える野心作

宇野「映画監督のテレビシリーズへの進出といえば、昔のスティーヴン・スピルバーグやロバート・ゼメキスたちがエグゼクティブ・プロデューサーとして関わっていた時代から、デヴィッド・フィンチャーやスティーヴン・ソダーバーグを筆頭にだんだん演出するようになった。まだフィンチャーぐらいの時代だと1~2話だけ演出して『このお手本通りに撮ってみな』と模範を示すパターンが多かったけど、最近は映画作家にとって自分の作品だという思いが強いのか、デレク・シアンフランス監督のHBOドラマ『ある家族の肖像/アイ・ノウ・ディス・マッチ・イズ・トゥルー』のように全エピソードを演出するケースが増えてきた。そして『僕らのままで』もグァダニーノが全エピソードを演出している。そういう作品を“8時間の映画”と形容しがちだけど、第1話と第2話は中心人物2人の視点の違いを比較しつつ、第4話に至ってはほぼ乱痴気パーティという、テレビシリーズとしてはそうとうラディカルな構成に挑戦している──そこに僕はすごく興奮したよ」
木津「それもやっぱりテレビシリーズだからできることですね。第4話のパーティだけのシーンは後のエピソードで回収されるし、第1話の裏側が第2話になっているという構成も、ただ見せ方を工夫しているだけじゃなく『グァダニーノもこんなキャッチーなことをするんだ』と新鮮な驚きがありました。まとめとして言うなら、グァダニーノのこれまでの得意としていたことを凝縮しつつ、さらにその先へ行ってるなという印象です」
宇野「音楽の使い方においても、『君の名前で僕を呼んで』ではスフィアン・スティーヴンスと、『サスペリア』ではトム・ヨークと組んできたように、今回の作品でもかなり斬新なことをやっているので、次回の番組でじっくり語り合いたいなと思います。映画と音楽の話をこうやって地続きでやれる人って木津君しかいないんだよ(笑)」
木津「映画は映画、音楽は音楽で日本の批評が分かれた時代があったけど、僕は批評家というより観客としての宇野さんにシンパシーを勝手に感じているので、こうしてお話ができるのは楽しいです」
宇野「もちろん映画も音楽も好きだから批評してるんだけど、この10年くらいは、『どっちも分からないと語っちゃいけない』なんておこがましいことは言わないけど、分かっていないと取りこぼすことがあまりにも多くなってる」
木津「アメリカン・ポップカルチャーがそういう感じだったけど、グァダニーノは『ヨーロッパからそういう人が出てきた』という象徴でもありますね」
宇野「その意味でも興奮できる監督なんだ。そんなわけで、『僕らのままで』がいかに必見のテレビシリーズであるか、そして作品の魅力を次回も続けて話したいと思います。ドラマと併せてぜひお楽しみください」
『僕らのままで/WE ARE WHO WE ARE』
原題:WE ARE WHO WE ARE
動画配信サービス スターチャンネルEX にて配信中!
Photo by Yannis Drakoulidis (c) 2020 Wildside Srl - Sky Italia - Small Forward Productions Srl
(2021年3月)
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