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驚いた!イラン映画にこんなに面白い作品があるのか!?『ジャスト6.5 闘いの証』(文/岡本敦史)

解説記事

2022.05.24

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イラン映画と聞いてアートシアター系作品だと早合点することなかれ。スリルとアクション、熱気に満ちた演技バトルと迫真のカメラワーク、そして社会を撃つメッセージ性に否応なく瞠目させられる、これは堂々たるエンタテインメント傑作だ。

 とにかく驚いた。イラン映画にこんなに面白い作品があるのか、と。もちろんアッバス・キアロスタミやアスガー・ファルハディほか、かの国を代表する名監督たちは何人もいるし、傑作も少なくない。しかし、近年日本で公開されたのはアートシアター系の作品ばかりで、大衆向けの娯楽作ではなかった。ところが、サイード・ルスタイ監督の『ジャスト6.5 闘いの証』は違った。大都市を舞台にイラン警察の麻薬撲滅チームと大物ドラッグディーラーの息詰まる対決を描いた、堂々たるエンタテインメントなのだ。しかも、スリルとアクション、熱気に満ちた演技バトルと迫真のカメラワーク、そして社会を撃つメッセージ性に否応なく瞠目させられる傑作なのである。

 本作が東京国際映画祭で上映された際のキャッチフレーズは、イラン版「ドラッグ・ウォー」。確かに、ジョニー・トー監督が中華人民共和国で撮り上げた『ドラッグ・ウォー/毒戦』(2012)を随所で思い出させる内容でもある。イランもまた中国と同じく、麻薬売買に関わった者には厳しい重罪を与える国であることは、観る前に予備知識として押さえておきたい。 

 冒頭、麻薬の売人と刑事が路地裏をひたすら全力疾走する『フレンチ・コネクション2』(1975)ばりのアクションシーンから、一気に引き込まれる。その皮肉な顛末が、本作の性格を早くも決定づける。つまり「誰も勝者がいない」物語なのだ、と。

 映画は大まかに三部構成に分かれており、第一部は麻薬撲滅チームの班長サマド(ペイマン・モアディ)が大物ドラッグディーラーを逮捕するべく、地道な捜査活動を進める姿をスリリングに描く。広大な廃材置き場を根城にたむろする麻薬常習者たちの一斉検挙シーン、留置場が朝のラッシュアワー顔負けの大混雑と化すくだりなど、あまりのスケールの大きさに度肝を抜かれること請け合いだ。流れるような横移動ショット、対象に肉薄する手持ちショットなど、多彩かつ的確なカメラワークにも惚れ惚れする。

 狙いをつけた容疑者の関係者であれば女子供にも容赦なく、時には強引な手段も辞さないサマドの姿は、とても「正義のために戦う法の番人」とは言えない。そんな刑事稼業のヨゴレっぷりに疲弊しながらも決して手を緩めない男の孤独と悲哀を、ペイマン・モアディがペーソスを滲ませながら好演。一度は別れたものの元サヤに収まった妻との関係をやたら気にしたり、ヒロイックというよりは庶民的な佇まいが好感と共感を誘う。
 第二部は、サマドたちの粘り強い捜査活動の末に逮捕された麻薬組織の元締め、ナセル(ナヴィド・モハマドザデー)が2人目の主人公となる。が、その初登場シーンはジャクジーで自殺未遂を図った姿というのが意表を突く。
 ここからは警察署を主な舞台として、なんとしても罪から逃れようとするナセルの悪戦苦闘、彼を有罪にするべく追い込みをかけるサマドとの丁々発止が映し出される。あるときは賄賂や情報提供を持ちかけ、あるときは卑劣な嘘でサマドを巻き添えにしようと目論む。往生際の悪さをフルに発揮して生に執着するナセルの姿は『ドラッグ・ウォー/毒戦』のルイス・クーを彷彿させるが、より感情的でナイーブな人物造形であるぶん、違う意味で「読めない」ミステリアスな面白さがある。演じるナヴィド・モハマドザデーは歌舞伎役者のような顔の濃いハンサムで、大物犯罪者のカリスマ性を説得力十分に体現するとともに、常に不安を背中に感じて生きてきた男の矮小さも見事に演じてみせる。

 警察の常套手段としてイランではおなじみなのか、容疑者を心身ともに追い込むための「人海戦術」も繰り返し登場する。狭い留置場にこれでもかと逮捕者を押し込み、立錐の余地もない定員オーバー状態にしたり、出口に殺到させた逮捕者たちと鉄格子の間でナセルをサンドイッチにしたり……。ただ画面を観ているだけで息苦しくなりそうなうえに、密の回避が必須なコロナ時代に撮影されなくて本当によかったと思える強烈な場面だ。

 ナセルとサマドという対照的な男たちの姿を、安易に善悪を決めつけずに映し出す演出は、『ヒート』(1995年)や『パブリック・エネミーズ』(2009年)といったマイケル・マン作品も連想させる。正義のために戦いながら人間性を失いかけているサマド、大罪人でありながら家族想いで人情家のナセル。このアンビヴァレンツの対比も見事だ。
 そして、第三部。これから映画を観る人のために詳しくは書かないでおくが、まさにこの第三部こそが普通の犯罪映画と一線を画す本作のクライマックスなのだ。麻薬犯罪者に対する厳しい処罰が待ち受けるイランならではの、ひたすら容赦ない「裁きと罰」が展開する。特に、ナセルと家族の面会シーンは、映画史に残るいたたまれなさと言っても過言ではない。

 ここに至ると主人公は完全にナセルにスイッチし、サマドの姿はほとんど画面から消えてしまう。つまり、もはや現場の人間が手を出せる領域ではなくなり、国家による制裁がベルトコンベア式に行われるのみなのだ。

 第70回ベルリン国際映画祭で金熊賞を獲得したイラン映画『悪は存在せず』(2020)は、オムニバスドラマ形式でイランの死刑制度を批判する力作だった。本国では上映禁止となり、監督のモハマド・ラスロフは出国を禁じられたため、ベルリン映画祭の授賞式にも出席できなかったそうだ。『ジャスト6.5』でナセルが迎える運命も、『悪は存在せず』と同様に、死刑制度の是非を観客に否応なく考えさせるものだ。

 映画の終盤、サマドが下す「ある決断」は、70年代ポリスアクションの名作『破壊!』(1973年)の苦い結末も想起させる。彼はそこで同僚に対して「かつて100万人だった麻薬中毒者が、今じゃ650万人だ。ナセルのような犯罪者を何年も逮捕し続けてきたのに、その結果がこれだ」と語る。この数字が、本作のタイトルの由来となっている。

 サマドの目的は、多くの市民の人生を破壊する麻薬犯罪を撲滅することであり、犯罪者を死刑台に送ることではなかった。見せしめのような重い刑罰を下したところで、また「別のうまいやり方」を考える追随者が現れるだけではないのか。それよりも先に解決すべきことがあるのではないか(最後にサマドが車の中から見つめるものが、きっとその答えだろう)。本作が『ドラッグ・ウォー/毒戦』と違うのは、中毒者とその家族が背負うものにもしっかりと目を向けるところである。

 ラストを締めくくるのは、またしても観る者をギョッとさせるほどスケールの大きなワンカットだ。その映像は、甘いヒロイズムやナルシシズム抜きに、ただひたすら厳しく観る者に告げる。「戦いはまだ終わらない」と。こういうのを、カッコいい映画と呼ばずして、なんと呼ぼう。


Profile : 岡本敦史
ライター・編集者。主な参加書籍に『塚本晋也「野火」全記録』(洋泉社)、『パラサイト 半地下の家族 公式完全読本』(太田出版)など。劇場用パンフレット、DVD・Blu-rayのブックレット等にも執筆。
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